不思議と焦りは無かった。
声の主が誰かは知らないが、警吏ではなさそうだし
留置場にこんな柔らかい寝台があるとは思えない。
どうやら助かったようだ。
もっとも片腕と両目を失って、ではあるが。
商売柄いつでも死ぬ覚悟はできていたが、
生きながら永劫の暗闇に落とされるとは思いもしなかった。
無事な手でそっと目元に触れてみる。
包帯超しに鈍い痛みがはしる。
ぎりっ。
知らぬ間に歯を食いしばっていた。
散っていった仲間の姿が脳裏に浮かぶ。
目が見えないだけにその最期が鮮明に思い出される。
ノックする音が聞こえた。
声の主が戻ってきたらしい。
沸き上がる怒りを一瞬で押え込む。
まだ気づかれるわけにはいかない。
考える時間は十二分にあった。
質問を避けるためにまだ具合の悪いフリをしたが、
意識は鮮明に戻っている。
手探りでも食事ができるようにとサイドテーブルに
焼き菓子と水差しが置かれていた。
至れり尽くせりだ。
よほどのお人好しか世間知らずだろう。
声の主に関する詮索はすぐに終わった。
それよりも「考える事」がある。
どうやって反撃に出るか…
このままでは済ませない。
我ながら馬鹿だと思う。
ようやく巡ってきたチャンスなのだ。
これを逃せばまたしばらくは「下積み」生活が待っているだろう。
魔術長の好意も無にする事になる。
それでも…
朝一番に魔術長への断りを入れると
直ぐにサンドラは蔵書の写本をはじめた。
治癒術。
一般的に魔術による傷の治療、特に欠損器官の再生は負傷から
時間が経過するほど成功率は低下する。
その低下率は負傷後12時間で跳ね上がった。
負傷24時間で成功率は三割をきる。
そして一般に魔法による治療には多額の治療費が必要だった。
魔法の取得には国にしろ個人にしろ、
それなりの元手と労力が必要だったからだ。
男の身なりからしてとても治療費が払えるとは思えない。
そして自分は治癒術を扱う事が出来る…
安っぽい正義感だとは思ったが、
あの男を治療院に預け実験に臨めるほど自分は強くないと思った。
何事も全力で立ち向かう。
片手間では済ませられない性格なのだ。
そして男の治療と仕事…その優先順位は明白だった。
「どうですか?」
ゆっくりと瞼を開ける。
光が、そして次第にぼんやりとした視界が開けていく。
「ああ、見えるよ。大した物だ。」
「まだ少しかすむでしょうけど、
しばらくすれば大丈夫だと思います。手の痺れも同じです。」
目をこらすようにして男が再生した腕を眼前で閉じたり開いたりしている。
まだ赤々とした粘液まみれの腕だ。
「驚いたな…」
「そうですか、これでも魔術には自信がありますから」
「いや、それもそうだが、てっきり女の子かと思っていたよ」
この世界で女性のほとんどは長髪だ。
それが女性美の象徴とされているからだ。
しかしサンドラは多少前髪を伸ばしている物のかなり短い。
男と間違われても仕方ない風貌だった。
魔術の修得こそ目指す目標であり、
機能的に見てこの方が良いと判断したからだ。
まして男にははっきり見えていないのだから無理もない。
いつもはもっとひどい誹謗中傷も平気なはずなのに、
その誤解がなぜだか無償に気恥ずかしかった。
満天の星空の下で2人は愛を語らっていた。
最近巷を騒がす怪物の噂も愛し合う2人には何の障害にもならなかった。
むしろ野暮な「観客」を遠ざけてくれて有り難いくらいなのだ。
ぼこり。
間近で起こった物音(というにはかなり大きな)に
愛し合う2人は一瞬にして現実へ引き戻された。
大きな穴が地面にあいていた。
正確には隠されていた扉が開いたのだが、
暗闇の中ではいきなり大穴が開いたようにしか見えない。
2人がさらにきつく抱きしめあって穴から這い出した影を凝視する。
「…続けてくれ。」
荒い息でそう告げると影はゆっくりと立ち去る。
ほっとする間もなくもう1つ、
今度は先程より2回りは小さな影が這い出して来た。
「…お、お邪魔しました。」
消え入りそうな声で告げると先程の影の後を追う。
あの男とサンドラだった。
2人の這い出してきた穴の奧…
その空間には噂の怪物が息絶えていた。
「どうだ、信じる気になったか?」
追い付いてきたサンドラを振り返るでも無く男が言う。
若干の沈黙。
「…はい。」
「で、どうする?悪いが見なかった事には出来ないぞ。
このまま俺と逃げるか?良いコンビになれそうだぜ。」
「な…」
冗談とも本気とも付かない口調で男が言う。
初めての戦闘、
そしてそれが証明する事実に困惑していた思考が一瞬停止する。
その言葉が自分を気遣ってのものだという事がわかって
サンドラは温かい気持ちになりながらも「お断りします」と返した。
「だろうな。」
サンドラの答えが意味する彼女の決心に男は嬉しそうに頷いた。
「恩知らずめ!」
魔術長が吐き捨てる。それはサンドラに向けられた物だった。
「それはこちらの台詞だな。
魔晶石の横流し。王の信頼を裏切った罪は重いぞ。」
サンドラを庇うようにして立つ衛視長が冷ややかに告げる。
衛視に両脇を押さえつけられた恰好の魔術長は悪びれもせず罵倒を続ける。
「貴様に何が判る!
無能な飼い犬には自分より劣る人間に仕える虚しさは判るまい。
我等が如何に優秀なのかを知ろうともしない低能共め!」
その隣で同じように束縛された先輩魔道士は
無言のままサンドラを見つめていた。
魔術を修める者にとって師弟関係は常人の考えるより遥かに強い絆だ。
サンドラの行為は善悪では無く
「術者」としては恥知らずな行為かも知れない。
2人が引き立てられると部屋には衛視長とサンドラだけになった。
「ご苦労だった。よく奴等の悪行に気が付いてくれた。
王に代わって…いや、民に代わって礼を言う。」
「いえ、書類整理で魔晶石の購入数と
実験データ消費量の差に気が付いただけですわ。」
嘘だった。
事情を知らない自分を「取引完了」まで
その現場に近づけさせないための雑務だったのだから。
魔晶石の購入記録は先程の先輩魔道士が一手に行っていた。
魔術知識の無い文官に水増しした魔晶石の申請を通し、
適当な実験結果報告でお茶を濁す。
後はサンドラの助けた男を使って闇市場に魔晶石を横流しし、
膨大な利益を得ていたのだ。
魔術長達の誤算は「手間賃」を惜しみ
手なずけておいた魔獣を使って男を始末しようとした事だろう。
結果的にエサになる直前に魔獣の素穴から逃げ出した男が
サンドラに助けられ、魔術長の悪行を暴露したのだ。
「あの…その事で少しお話があります…」
サンドラは衛視長に向き直った。
「大した出世だな、おめでとう。」
まだサンドラの家に居座っている男が笑う。
王国として魔術長の汚職は表沙汰には出来ない。
その結果、
「類い希なる後継者の出現による早期の引退」
という事に落ち着いたのだ。
サンドラは後任の魔術長に抜擢されたのである。
他の術師達は事情を知っているだけに容認するしか無かった。
誰もが多かれ少なかれ後ろ暗い部分をもっている証でもある。
この人事は王による魔法院へのテコ入れなのだ。
その意味では嫌われ者であるサンドラは適任と言えよう。
「それにしても良いのか?
また風当たりが強くなるだろう。王も喰えない野郎だ。」
「え、ええ。」
煮え切らないサンドラの反応に男が首を傾げる。
「…その、
…長年「魔術」という特権で養護されてきた魔法院の暗部を
一掃しなくてはなりません。 それで…」
初めての経験だった。思ったように言葉が出ないなどと。
1時間にわたる長文の詠唱もミスをした事など無いのに…
「おいおい、1人で全部背負い込むつもりか。人間相手なんだ、
魔術の実験みたいにはいかないだろう。」
「は、はい!その通りなのです。」
声が上擦っているのがわかる。
「そのためには裏社会に通じた方のきょ、協力が必要なのです。
不可欠です。お、お願いしたいです!」
一気にまくし立ててぺこりと頭を下げた。
男が呆気にとられているのが雰囲気でわかる。
「冗談はよしてくれ、俺は悪党なんだぜ。奴等と組んでたんだ。
だからアンタを巻き込むなんて回りくどい事をしたんだよ。
住んでる世界が違うんだ。」
「よ、良いコンビになれると、そう仰ってくれたではないですか。
それに、協力していただければ罪は問わないと…」
食い下がるようにして迫るサンドラを男の視線が射竦める。
彼女は言すぎた。
男が大きく首を振る。
「…馬鹿な事を。俺の事を奴等に話したのか…
俺の罪を帳消しにすると言われて役目を引き受けたんだな?
…それで俺が喜ぶとでも思ったのか、
どこまでも世間知らずなお嬢さんだ。」
言葉も無かった。
「…世の中は道理の通じる「日向」ばかりじゃない。
いいだろう、アンタが世の中を渡っていけるようになるまで手を貸そう。
目と腕の礼だ。」
・
・
・
試薬の結果が出るまでの間に昔の事を思い出していたサンドラの頬が緩む。
随分昔のような、それでいて昨日の事のような…
少なくとも振り返る暇もなかったほど忙しかったのは事実だ。
あの日から伸ばし始めた髪の長さがその時間を物語っている。
結果が出た。
さらにもう1度同じ結果が出る事を確認すると
サンドラはじっとしていられなかった。
夜半に入って随分と気温が下がってきている。
予定している実験には最高のコンディションだ。
夜勤を命じた助手達がそろそろやってくるころだろう。
それまで待つべきか…
すっかり落ち着きを失っているのが自分でもわかる。
一際書類が積み上げられている机が目に入る。
有能だがどこか抜けている助手の机だ。
その書類の1枚に急な私用で今夜の実験は中止する、
と書き留める事にした。
助手達が悪態をつく様が目に浮かぶ…
その最後に他の助手達を無事になだめたら
前回の失敗は帳消しにします、と書き足した。
どこかで見た情景だったが、
それを思い出せるほど今のサンドラには余裕が無かった。
一秒でもはやくあの人に伝えたい。
サンドラが家路を急いでいるその時…
郊外の雑木林に男は呼び出されていた。
雪の降り出した夜空を見上げて男が溜息をつく。
白く息が舞う。
「なるほどね…」
目の前には衛視長が立っている。
手には重そうな革袋が握られていた。
「貴様の活躍には礼を言う。よくやってくれた。」
「で、それが手切れ金って訳だ。」
沈黙。
それが肯定を意味している事は明白だった。
「もはや魔法院に悪は無く、
次期宮廷魔術師への就任は間違いない。
彼女のためにも頃合いだと思うが。」
「国の為だろう。」
即座に男が吐き捨てる。
「否定はせんよ。
ゴロツキと関係のある宮廷魔術師など認められる訳がない。」
「この場で殺されないだけ感謝しろ、か。
…本当に喰えない連中だ。」
脳裏をサンドラの笑顔が過ぎる。
「貴様は死んだと伝える。
言い残す事があったら聞いておくが?」
「騎士の十八番だろう。
精々気の利いたヤツを伝えてやってくれよ。」
男は革袋をひったくるようにして受け取った。
・
・
・
「サンドラ様!」
絶叫に近い悲鳴を上げて助手が駆け寄ってくる。
蔵書の一冊を棚から取り出していたサンドラが振り返る。
「も、もしもの事があったらどうするんですか?!」
「大丈夫です。これくらいの運動はしないと…」
身重の身体を気遣いながら慎重に踏み台から降りる。
「場合によります!大体、何で書庫なんかに?」
「これの事で少し調べたい事が出てきたのです。」
サンドラが懐から壊れた操り人形のような鋼線と木材の塊を差し出す。
「なんです?」
「義手です。筋肉の微妙な動きを「信号」として拾うのに
何か良い方法はないものか、と。」
懸命になって「魔道式義手」の構造について語りだすサンドラを
助手は呆気にとられて見つめていた。
宮廷魔術師が産休期間中に何故義手の開発をしなくてはならないのか…
やはり天才とはどこか常人と違う物らしい。
男の生死については心配していなかった。
常々「死に際」について男が語っていただけに
衛視長の言葉は疑惑を裏付けただけだった。
きっとまた戻ってくる。
月並みだがそう信じる事にした。
あの人が傷だらけになって戻って来ても良いように。
目を失っていても生まれてくる子供の姿がわかるように。
腕を失っていても生まれてくる子供を抱く事ができるように。
今は出来る事をしよう。
「生き血を啜ってでも待ってみせます」
物騒な事を呟くサンドラの表情はとても穏やかだった。
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